浜ちりめんの始まり

ブライドシルクのふるさとのこの長浜地方は、古文書(古事記及び風土記)によれば、古く元明天皇の和銅5年(712年)「近江、越前・・・の20ヶ国に令を始めて綾絹を織らしむ」とあり、また絹布重宝記には「浜羽二重(浜絹とも云う)は江州長浜より織り出す絹なり、加賀絹よりは格別糸性良し、惣て長浜より織り出す類何によらず上品なり、丈は長く染付けは羽二重つやのあるものなり」と書かれ、大変古くから絹織物行われていました。
また、組合関係の文献によると「宝歴2年(1752年)に、江州長浜町の北郊外、浅井郡難波村(現在、滋賀県長浜市難波町)の中村林助および乾庄九郎(一時権太夫ともいった)の二人によって創められたとされている。当時姉川と高時川の合流地域にある難波村は毎年水害を豪り、年貢米に窮することもあり、また養蚕地帯でもあった関係上、糸値が下がって大変困窮していたので、その打開策につき苦慮していたところたまたま蚕紙商売のために当村および近郷へ毎年来て馴染になっている庄右衛門という商人から縮緬製織が有利であることを聞き、これを農閑の内職に取り入れることを思い立った。そして広く村内の婦女子に修得させようと考え、宝歴2年(1752年)12月、彦根藩北筋奉所に願い出、その許可を得た。」と書かれています。
また、「この頃(宝歴年間)、京都に市場を求めて、買先店方7軒を設けて売り出ししたが、西陣の機業者達は田舎反物の京都進出は自己市場の独占権を脅かすものとして、浜ちりめんの京都移入の禁止方を京都二条役所に訴え出た。この願いは容れられて浜ちりめんの京都進出は、発足早々障害に当面した。これは林助・庄九郎にとって大打撃であったに相違なく、両人は八方手を尽くしてその解除のため奔走したようである。長浜の浜ちりめん創製記念碑には、両名は強訴の罪によって4年間二条役所の獄舎に幽囚されたことが記されている。」とも書かれています。
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浜縮緬創製記念碑(長浜八幡宮内)

近年では、1752年に始められたものがそんなに短期間に地元の製品を脅かすとは考えにくいため、実際に「浜ちりめん」が始められたのはもっと以前であると考えられています。
その後、林助および庄九郎は彦根藩に対して、京都での販売の道が引かれるように援助を哀願しました。彦根藩では願書を受理し、打開策を講ずるための調査を京都彦根藩邸の御賄役山根善五右衛門に命じ、かくして京都町奉行所の方針も漸次変更され、宝歴9年11月浜ちりめんは京都市場に移出することを許可されることになりました。浜ちりめんはこのように彦根藩の厚い保護によって京都市場という重要な販路獲得に成功することができたのです。